ギビバイトという単位

ギビバイト(GiB)という単位がある。
IEC(国際電気標準会議)が1998年に承認した、比較的新しい単位だ。皆さんご存知だろうか。

実はこの単位、お馴染みのギガバイト(GB)とほぼ同じ意味だったりする。
だったらギガバイトでいいんじゃない?と思われることだろう。僕もそう思うし、たぶんみんなそう思っているから、ご存知の通り全くさっぱり普及していない。
もちろん、定義上は全く同じ意味ではない。

キロは1000ではなく1024

そもそもギガとは、千倍を意味するキロの更に千倍のメガの、更に千倍という意味のSI接頭辞(国際的に定められた単位)だ。コンピュータ以外の日常生活ではキロしか馴染みがないけれど、たとえば1キログラムの千倍は1メガグラム(1トン)で、その千倍は1ギガグラムと表すことができる。

しかし、コンピュータの世界の慣例では少し意味が異なる。キロもメガもギガも、ひとつ下位の接頭辞の1024倍を表すのである。このような中途半端な数になる理由には、コンピュータの仕組みが関係している。

現在のコンピュータは、あらゆるデータを内部では0か1の数字の集まり、つまり2進法で表しており、一般的には2進法で8桁分を1バイトとして定義・処理している。
コンピュータは2進法で計算するので、2のn乗の数が最も扱いやすく効率が良い。その為、キロの近似値である2の10乗(2進数10桁)=1024バイトを1キロバイトと定めているのである。さらに1キロバイトの1024倍が1メガバイトで、同様にギガバイト、テラバイト、ペタバイトと続く。

ギビバイトが生まれた理由

つまり、キログラムなど(SI単位)を日常生活で使う時と、キロバイトとではキロの意味が1000倍と1024倍で、24ほど違うのだ。この程度の誤差は大抵、あまり気にはならないだろう。
しかし単位がギガになると、1000の3乗=10億に対してコンピュータでは1024の3乗=約10億7374万なのである。約七千万違うと言われれば、そこそこ気になってくる。
言うまでもなく接頭辞がテラやペタなど上位なれば、更に誤差は大きくなる。

さてここで、やっと本題だ。
この誤差は無視できないので明確に区別したい。いや、したい事にしてみる。
そこで登場するのがギビバイト(GiB)だ。これには明確に、1024の3乗の意味しかない。だからギガのように、その正確な数が1000の3乗なのか1024の3乗なのかを考える必要がなくなる。おお、素晴らしい!……かな?

ギビバイトは必要か

これ、ほとんどの人がピンとこないのが正直なところだろうと思う。
というのも、コンピュータのライトユーザにとって誤差を実際に意識する場面はほとんど無いだろうし、コンピュータに詳しい人にしてみれば、ギガバイトといえば通常は1024の3乗を表すのが当たり前のことなのである。誰もギガバイトを1000の3乗かも?なんて考えたりしないのだ。
なので、学者さんや仕様書を書く人にはギビバイトも必要かもしれないが、他一般の人にとってそれが必要となることは、今後も永遠に無いだろう。だから覚える必要はないし、覚えていてもこの記事のようにウンチクのネタ程度にしか使えない。
厳密さが必須で、見聞きする人が用語の意味を知っている場面では使っても良いが、知らない人が居ることも想定できる場面では、かえって混乱を招くだけだろう。

ストレージ容量の謎

ただ一つだけ、例外がある。
HDDやSSDなどの、ストレージ容量のパッケージ表記だ。これは何と、各単位を千倍として計算している。その為たとえば2TBと表記してあるHDDは、実際には約1.82TB(TiB)しかなく、PCでの表示もそうなる。
恐らくは少しでも容量を多く見せる為に考え出された涙ぐましい工夫だが、いつも少し損した気分になるので、この慣習はそろそろ止めて頂きたいものだ。

そういえば、大昔のゲームソフト(ROMカセット)では単位を「メガ」とだけ表記してあったけど、実はビット容量表記(バイト容量の8倍の値)だったのでした。(おじいちゃんの昔話)

まとめ

実質的に必要性のない複雑さは、無駄である。言葉というものは、必要なぶんだけ意味が伝わればいい。
そしてこの「○ビバイト」という呼び方、キビバイト、メビバイト、ギビバイト、テビバイト…と続くのだけれど、なんだかこの響きはとっても変な感じがする。それにキビとギビが見分けづらい。
だから使いたくなくて、それがこの記事を書いた理由なのだけどね!

参考URL

2進接頭辞 - Wikipedia
通信の世界ではkbps(キロビット毎秒)が1000bpsを意味する事が多いらしい。

地震予測は不可能だと理解しなければならない

熊本地震で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
不安な日を過ごされている事と思います。早く穏やかに過ごせる日が来るよう願っております。

5年前の東日本大震災のことが、今でも忘れられません。人間の力は極めて弱く、自然の営みに抗うことはできません。しかし、被害を最小限に食い止めることは出来ます。人災は起こしてはならないのです。
この記事は拙い文章ではありますが、一人の方でも考えるきっかけにして頂ければと願います。


地震の予測は、ほぼ不可能です。
そう理解しなければなりません。

地震発生の予測(予知)が可能かどうかは、地震大国である日本ではとても重要で、よく議論される問題です。人命に直結する問題であり、できることなら可能であって欲しいのは勿論のことです。
しかしながら、知られている事実をよく考えてみれば、精度の高い地震予測を行うにはあまりにも情報が不足していることが判るのです。
(緊急地震速報は地震発生直後の地震波を捉え警報を出すシステムで、地震発生の予測ではなく地震波の到達予測です。従って信頼性が高い警報です。)

一点は、現在知られている地球の内部構造が、推測でしかないという事実です。
地球内部物理学が示す通り、人間が実際に地質を確認している範囲は掘削によるものです。それは半径約6371kmの地球の表面10km前後ほどでしかなく、それ以上深部の内部構造は地震波の伝播の違いなどによる科学的な推測でしかありません。
つまり私たちは、この地球の内部について、明確な事をほとんど何も知らないのです。

そしてもう一点は、地震予測に必要なデータが著しく不足していることです。
46億年という地球の長い歴史とくらべて、人間の歴史は極めて僅かな期間でしかなく、地震について詳細なデータを取るようになったのは更にごく僅かな期間です。
Wikipedia地震予知の「研究と政策の歴史」によれば、近代地震学の始まりは19世紀後半で、その歴史は百数十年です。人間の感覚では長いとも思えますが、仮にそれが150年としても、地球の歴史の3000万分の1の期間でしかないのです。

現在では、断層で起こるにせよ火山活動により起こるにせよ、プレートの変動が地震の発生に大きな影響を与えていると考えられていますが、その根拠となる理論プレートテクトニクスが発展したのは1960年代後半以降です。また、コンピュータによる詳細で正確な地震データを取れるようになったのは、コンピュータの発展の歴史から考えてやはりここ数十年のことでしょう。
何億年、何十億年という単位で活動を続けている地球の変化が、どのようなパターンで発生するかを知るには、あまりにも短すぎる期間であることは明らかです。
現在、一箇所の大地震の周期は百年から数万年とも言われていますが、一回の周期にすら満たない年数の情報で、そのパターンをどうやって推測できるでしょうか。

公的には、地震予測に使われる予算は多いですし、また心情的にも「現状では地震予測は不可能である」とは明確に言えないのだろうと思います。
ですが、本当は解らないにも関わらず出された、曖昧な予測に頼るとどうなるでしょうか。

熊本地震においては、震度6弱程度の余震が起こる可能性があると予測された直後、それを上回る地震が起こりました。更に翌日には、前日の本震を大きく上回る規模の地震が発生し、前日の地震は「前震」で、こちらが本震であるとされました。
例えば、6弱程度なら耐えられると考えられた建物があったとすると、前述の予測を信じ行動することはどんな結果に繋がるでしょうか。

地震の予測は、現在の知識と技術では不可能なのです。
プレート境界が多数集中している日本では、いつでもどこでも、大地震が起ってしまう可能性があるのです。大地震の発生の直後にも、更なる大地震が起こる可能性があるのです。ですから私たちは、地震予測に頼ることなく、必要な対策をしなければなりません。

予測が不可能である以上、まず必要なのは家屋の制震、免震、耐震性の向上でしょう。火災や津波に対する対策や避難対策も必要で、これは公的なレベルでも取り組まなければならない事です。そして大地震が起こった直後は、連鎖して大地震が発生する可能性が非常に高いですから、予測に頼らず最大の警戒をしなければなりません。
様々議論のある原発も、安全性を保証できない以上、やはり稼働させるべきではないのです。社会は経済的合理性の為ではなく、そこに生きる者の幸せの為にあるのです。

幸せに生きるということ

死生観、生き方に関するお話しです。

この二年間、僕は人間についての様々なことを思い悩んでました。
何か一つのことが原因というわけではないのだけど、それなりに歳もとったし、親しい間柄の人も亡くなったりして、どう生きるべきかとか、生と死について延々と考える苦しい日々でした。その中で、今まで真剣に考えてこなかったある事に気付きました。自分もみんなも、生あるものは全て死ぬのだと。

漠然と、それは当たり前の事だと僕らは思っています。事実を直視するのを無意識のうちに避けているのかもしれません。だけど、誕生した生命は、その誕生の瞬間から確実に死へ向かっているのです。
今、この地球上に生きている70億あまりの人たちも、120年か130年も経てば、誰一人として生きてはいないでしょう。生まれたばかりの子も含めて、無数に存在する命が、皆儚く消えるのです。死はたまにしか起こらない不運な出来事などではなく、日常の中に無数に存在するありふれた出来事なのです。

ビッグバン理論によれば宇宙は誕生より約138億年、地球は誕生より約46億年経過しているとされています。人間の寿命を約80年と仮定すると、ひとりの人が生きている時間は地球の歴史の5750万分の1程度です。それは80歳の人にとっての、43.9秒相当の時間でしかありません。たったの、それだけです。
地球から見れば一人ひとりの人間は、ほんの束の間、現れては消える幻のようなものでしょう。

そんな幻のような存在の自分が、自分という枠組みの中に固執してどれほどの意味があるでしょうか。「誰だって自分がいちばん大事だ」などと言ってはばからず、常に自分を再優先に考える人生のいかに虚しいことでしょうか。どれだけ自分を大事にしても、どんなに多くのものを得たとしても、間もなく自分自身と全てを失うというのに。

でも。だからこそ、思うのです。自分という不変のものが確かに存在するという、根拠の無い妄想から抜けだして、幸せに生きるということを真剣に、自分の頭で考えようと。
ほんの束の間でも、僕らはいま生きている。だけど、僕らそれぞれが自己満足の世界で完結してしまうならば、果たして本当に生きているなどと言えるでしょうか。他者の幸せを考えず、他者の為に行動せずに一生を終えて、僕らは「幸せな人生だった」などと思えるでしょうか。

他者を思いやりなさいと、善人ぶるつもりはありません。
そうではなく、他者に対する愛を持たない限り、幸せな人生はきっと、あり得ないのです。自分自身のためにこそ、他者と世界を愛し、大切にする必要があるのです。
もしもいま自分が辛いのならば、他者と自分の全てを許し、全てを肯定しようではありませんか。それは諦めでも、現実逃避の理想論でもないのです。現実をあるがままに受け入れることで、揺るぎない心の平穏と活力を得て、幸せに生きることに他ならないのですから。

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。
昨年はブログをすっかり放置してしまって申し訳ありませんでした。

ほぼ二年間何も前向きになれなかったので、普段は全く読まない本を、この半年間沢山読んでいました。
その間も考えていたことは色々あったのですが、それは明日、次の記事で書きたいと思います。
拙い表現力ではありますが、読んでいただけたら幸いです。

携帯には無いスマートフォンの魅力

今回はスマートフォンを中心としたコンピュータの未来について、個人的な予測を交えて書いてみます。


iPhone3GS


最近、スマートフォンからのアクセスが急増中です。
運営サイトお絵描きJPでのアクセス統計では、一年前にはほぼゼロだったAndroidのアクセスが、ここ六ヶ月では5.27%を占めるまでに急増。
同期間のiPhone 2.48%、iPod touch 0.82%、iPad 0.65%も合計すると全体の10%に迫る勢いです。
お絵描きJPはまだスマートフォン対応していないにも関わらずこの数字というのは、驚異的と言えるでしょう。

また、同期間の調査ではWindows PCからのアクセスは緩やかに、しかし確実に減少しています。
(12ヶ月前からの6ヶ月間が88.67%、最近6ヶ月間が83.46%)
Windowsのシェアは依然圧倒的ですが、短期間でこれだけ数字が変化した事は、PCからスマートフォンへの移行が進んでいる一つの証拠だと感じました。
今後もスマートフォンの普及は進み、Windowsのシェアは徐々に縮小してゆくでしょう。

友人はスマートフォンにしてから、PCをほとんど起動しなくなったそうです。
実際、僕も持ってみて、PCが不要とまでは思わないものの、PCには無い多くの魅力をスマートフォンから感じます。
PCよりもずっと画面が小さいにも関わらずです。

僕は、携帯電話(いわゆるガラケー)では、到底PCの代用にはならないと思っていました。
いったい、何が違うのでしょうか。

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